独立して建築設計事務所を構えるにあたり、建築のこと、街のこと、人々の暮らしのこと、世界の様々な環境のこと、それらを机上の学習ではなく、実際に自分の目で追い、街を歩き、感じたままに独自の視点で学びたいと思い立ち、世界旅行へと旅立った。写真はなるべく撮らずに、スケッチしながらの旅と決め込んだ。それがボクの、20代の出来事だった。
かれこれ30年くらい前の話しになるが、その時の思いを50代になったいま、改めて感じてみようと、この記事を立ち上げてみる。幾度かそんな思いを持ちながら、いざ書き始めてみると中々どうして進まない。あまり深く考えすぎていたのかも知れない。もっと気軽に投稿していこうと思う。
当時の日記を元に、それを改めて書き起こしてみる。
大阪から上海へフェリーで渡航する。
この手段が当時としては、格安で海外へ出る際のベストチョイスだった。今のような格安航空券が無い時代の話し(汗)
いまだとPCやスマホで記録した方が便利で荷物も少なくなるけど、当時はそのような文明の利器は当然なかった時代
ひとまず上海へ渡り、その後陸路で各方面へとバックパッカーは散っていく。当時の上海は外国人紙幣と人民紙幣(レンミンピー)とに分かれていて、レートの差が10倍くらいあったような記憶がある。食事ひとり分で10元あれば腹いっぱい食べられる上、宿代もドミトリーにすれば15元から20元あれば泊まれた。当時のレート(中国1元が日本円で25円)で、日本円に換算すると1日1,000円から2,000円の間で、交通費も入れて中国内の旅ができた。※これでも、かなり贅沢な予算。もっと切り詰めればいくらでも切り詰められた。
上海から揚子江(長江)を更に船で遡る計画を立て、フェリーのチケットを買いに市内を彷徨う。とにかく文字が読めないし、片言の英語も通じない、身振り手振りの筆談だけが頼り。チケット売り場を探すだけで、丸2日を要した。
交通機関、観光地の入場料等々、すべて外国人料金と人民料金とに分かれていて、外国人はかなり高額設定の上、外人紙幣で払え!と必ず怒られる。中国の人、いつも怒ってる上、整列して待つという概念が全くない。我先にと押し合いへし合いし、窓口はいつもどこへ行っても、ぐちゃぐちゃの人の塊で見えない。日本のように行儀よく待っていたら、チケットは絶対手に入らないし日が暮れる一方。そこで培った戦法としては、おしくらまんじゅうで、わーっ!と人を押しのけ、メモに行き先を書き、それを無言で窓口に差し出すというように。こうすることで、人民料金(格安)でチケットが買えるので、一石二鳥!笑
人は旅することで、逞しくなっていくのである!格言