中国研修旅行記・旅の行程

メインは福建省にある客家土楼巡りにあり、ツアーでなく完全オリジナルぶっつけ本番旅なので(汗)それなりの工程を組む。全工程13日間で、東京〜上海の往復チケットのみ日本で手配し、中国国内の移動、食事、宿泊等の手配含め全て現地調達で向かった。ドキドキワクワク感満載な予感しかしない。

世界一周の旅(昆明~西双版納)

06apr1992(mon)晴れ

バスで、西双版納へ移動途中の甘荘村で、思いもよらぬ強制宿泊

思茅への途中の集落に建つ、不思議な建築物。

泊まった旅社で、南京虫に腹をヤラれ痒い。一旦、南京虫に食われると、かなりの日数尾を引き、しばらく跡がクッキリと残ってしまう。ちなみに、半年後の旅の終わりまでずっと跡が残った。

バスに乗り込み出発する。
未舗装路の上、ヘタったサスペンションでは振動が直接ガツン!と、お尻に響く。ガタガタ揺れる度に首がぐわんぐわん揺らされ、生きた心地がしない。早く西双版納に着け!早く西双版納に着け!と念仏のように心でとなえる。

で、やっぱり途中の村でバスが停まる。明らかに動こうとしないので、トイレ休憩ではないことくらいわかる。おぃ、おぃ、まさか

まさかの!強制宿泊って、を~ぃ!!
今度は、ニコニコ顔ではフロントが宿泊許可を出してくれない。外国人は泊まれないという。出たよ、出たよ~!あの忌まわしい外国人宿泊拒否!やめて欲しい、こんな田舎町でどうすんねん!と、中国の片田舎の中心で、

どないすんね~ん!

と、叫びたい。訴えたい。
途方に暮れかけた時、台湾観光客がたまたま居合わせ、外人が泊まれるホテルを尋ねてくれ、一緒に泊まってくれるという!地獄に仏とは、まさにこのこと!!ホッと胸をなで下ろした。

道端の道標を確認すると、ここは思茅という村らしい。
甘荘~思茅、行程約280km。ようやく明日こそは、西双版納だと思うことにして寝る。

つづく

<支出>
朝:なし
昼:麻婆豆腐、牛ネギ炒め、米飯 計5.5元 ※牛肉ネギ炒めも良く食べてる
夜:豚の耳、牛タン、水餃子、ビール 計5元
宿泊費(台湾観光客とシェア):5元/人
タバコ、ペプシコーラ 計5.5元
合計:22元(539円)

世界一周の旅(昆明~西双版納)

05apr1992(wed)晴れ

3日、西双版納行きのバスチケットを求め、昆明市内を彷徨った。

ようやく探し出したチケット売り場で乗車券を買おうとしたが、機械が壊れていて発券できないとのことで、翌4日、やっと乗車券を入手。(ペラッペラの透けるような紙製の乗車券)当時の中国はそんな感じで、チケット入手が本当に大変だった。昆明~西双版納までの行程、約660kmのバス代50元(1,250円)

ホテルの窓から

朝5時頃、目が覚める。身支度をし、バスターミナルへ向かう。
8時10分、バスが発車。これ本当に走るの?って状態のポンコツ車。バスの中は狭く、お決まりの様にやっぱり硬い座席の上、身動きできないくらい、ぎゅうぎゅう詰めにされる。陸路での移動は、とにかく耐える!こと。忍耐が必要。様々に変化する景色を楽しむ余裕すら殺がれる設備と環境。

デコボコ道の反動で尻が浮くくらい飛び上がる。その度に首がぐらんぐらんと左右に揺れる。しっかり力を入れてないと、ムチ打ちになりそうだ。

夕刻前、バスがとある町で停まり、皆ぞろぞろと降りていく。え?なに?この時間に??クエスチョンマークが、ぐわ~ん!と、怒涛の如く押し寄せる。

全員、とある建物に入っていく。一緒に中に入ってみると、どうやらここで宿泊するらしい。

をぃ、をぃ!
聞いてないよ~!!

当然、ホテル代込みのバス料金ではないので、各々フロントで受付を済ませ、各部屋に散っていく。物凄い片田舎の中国の中心で

中国語も話せない日本人が、どうしろっちゅうね~ん!

と、とりあえず叫びたい。
ほんと中国、どうなってんか分からん。ワケの分からぬままその流れで、フロントで適当にニコニコして、お金を払って部屋に行く。朝から何も食べてなかったので、猛烈に腹が減ってることに気付き、外へ出て食堂を探す。

道端に「甘荘」と書かれた看板が立っている。そこでようやくここが甘荘という所だと知る。そんな日程だとは知らされずにバスに乗ったものだから、夜通し走るのだと思っていた。そこは、バスで昆明から南西へ230㎞ほど走ったところに位置する小さな村だった。

ちなみに、GoogleMapsで調べてみると、現在は高速道路が通り、昆明から車で2、3時間で行けるようだ。

つづく

金銭出納
朝:なし
昼:なし
夜:牛ネギ炒め、白菜炒め、米飯、ビール 計5.2元
タバコ8元、ペプシコーラ1.25L(5元)、落花生7角、旅社(ホテル代)6.1元、シャワー5角 合計25.5元(626円)
※ホテル代6.1元よりタバコ(マールボロ)8元の方が高い!

世界一周の旅(昆明~西双版納)

04apr1992(wed)晴れ

この旅の目的は、きちんとした建築学を学んでいない自分にとっての「建築を学ぶ旅」という位置付けでもある。単に、異国の地を見て回りたいだけの、一時の感情だけではない。

といういのも、この旅に出かける直前まで、東京の設計事務所(團+青島建築設計事務所)に勤めていた。團さん、青島さん、そして事務所の仲間に、ものすごく刺激を受け、建築の世界で生きて行こうと、このとき心に誓った。この事務所に勤めていなければ、いまの自分は無かったと、断言できる。それまでは一級建築士なんて、遠い、遠い、存在に思えたのだから。

だけど、建築をちゃんと学んでいない自分にとっては、すべてが未知の世界。大学の建築学科へ進学しようと思ったこともあるが、学費やその他諸々のハードルが頭をもたげる。じゃあ、独学するしかない!と、一念発起。様々な建築専門書を読み漁ったが、机上での勉強が嫌いだった自分には、いまひとつ身に入ってこない。少し、視点を変えて、実際の建築を見た方がイイんじゃね?と。百聞は一見に如かず!!社会が自分の教師というスタンスなんてワクワクするやん!しかも、学費を貯めるなら、その半分以下の費用で、旅費に充てた方がなんかお得感アリアリやで~!!というワケの分からん理由をこじ付けて。

思い込んだら鉄砲玉。 食費を切り詰め、半年間コツコツと費用を貯めた(この時、いまのカミさんと結婚する前提だったから、その資金も同時に貯めていたので、相当生活を切り詰めた)で、その事務所で一緒に働いていた、普段から良くしてくれていた先輩から、中国に行くんだったら、西双版納(シーサンパンナ)がイイぜ!是非行ってみてよ!と言われていた。

前置きが長くなってしまったが
本当は、西双版納よりも、楼蘭とか烏魯木斉とか行ってみたかった。実際、その予定だったが、長江を遡るという流れで、行きついた先が昆明。成都から西安、烏魯木斉、そこから国境を越えなんて朧気に考えていたが、現実はそう甘くはなかった。そもそも、結婚式を半年後に控えていたこともあり、期間に制限があったこと。ギリギリの予算だったこと。全部現地で情報を仕入れ、チケットも現地手配。当時の中国はそもそもチケット売り場がどこにあるのか?一日中歩き回っても情報が得られないということはザラ。見つけたとしても、おしくらまんじゅうでヘトヘトになり、あぁ、もうちょっと滞在延ばすかとなり、チケット入手するだけで、あっという間に日数が経ってしまう。費用を抑えるため、基本的に国内の移動は陸路が前提だったため、中国滞在は1か月間という期限に、あっという間に迫り、急遽、昆明から飛行機でタイへ飛ぶことにして、近隣の西双版納や、大理、石林を回ろうというプランに変更したのだった。

長くなったので、この辺で。
次回へと、つづく

雲南省名物、過僑米線。米の麺。この麺にハマって雲南省では、朝と昼こればかり食ってた。日本円にすると、これだけのクオリティーで1杯15円ほど!!

金銭出納
朝:インスタントラーメン、オレンジ×2
昼:米線0.7元
夜:麻婆豆腐、牛ネギ炒め、米飯 計5元
食堂近くの露天にてビール2本(3元)購入し、持ち込み。
博物館(少数民族資料館)5元、動物園6角、パンフレット1元、水筒10元、昆明~西双版納バスチケット50元、少数民族に関する書籍4.4元、ポーチ10元、財布8元、シシカバブ4角 合計98元(2,404円)

世界一周の旅(重慶~昆明)その3

1apr1992(wed)くもりのち晴れ

少し間が空いてしまったが、重慶からボロボロの列車に乗り込み、大丈夫か〜ぃ!と不安になったところからの話しの続き。

で、やっぱり中国人の喧騒とゴミの山。どこへ行っても、ウルサイことと、ゴミの山はつきまとう。種好きなことは前にも書いたが、スイカ、ヒマワリ、カボチャあらゆる種や、果物の皮、食後のゴミといった食べ物のカス類が、床のいたるところに吐き捨てられる。歩く隙間もないほどに。

そのゴミを、服務員のおばちゃんが定期的に、通路の中央部へとうずたかくてんこ盛りに積み上げては去っていく。

を〜ぃ!片付けへんのか〜ぃ!!

列車と列車の連結部には、トイレがあり、給湯器(ボイラー)まで備え付けてある。いつでもお茶が飲めまっせ~!と、言わんばかりに。実際、中国の人々はお茶好きで、みんなコーヒーの空き瓶?を持ち歩いている。空き瓶に茶葉とお湯を入れる。それを常に携帯し、ちびちびと飲んでは、蓋を閉めしている。おにーちゃん、おねーちゃん、おっちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、ほぼ全員がそのスタイル。中には花柄の陶器製蓋つき巨大マグカップみたいなものを持ってる人も居るが、大体はインスタントコーヒーの空き瓶だ~!

つづく

世界一周の旅(重慶~昆明)

30mar1992(mon)~31(tue)くもり

辺りは薄暗くなり、夕方6時頃、ようやく重慶駅にたどり着く。早速、少しは寝なきゃと、良さ気な場所を探す。

重慶售票処の建物内は人だかりで、寝れそうな場所は既に現地の人々で占領され、床に座る隙間さえない状態。すでに毛布にくるまって寝てる人もいる。仕方ないので、外ベンチで一夜を明かすことにした。この旅で初めての野宿、ちょっとドキドキ。とにかく寒い。30分ほどウトウトするが、4人掛けのベンチだというのに、6人くらいでおしくらまんじゅう。で、結局寝れない。

深夜0時。駅の広場は灯りひとつなく真っ暗闇。にもかかわらず、人々のひっきりない往来。そして例の中国人のガヤガヤ感は、まったくもってイラっとさせる。声がやたらとデカイ上に、早口で強弱の効いたあの独特のイントネーションが、更にイライラ感をつのらせる。公衆エチケットの概念があからさまに欠如しているので、女性でも平気でその辺に痰をぺっぺと吐く。ティッシュなんてないので皆、手鼻がうまい。ちぃ~ん!スパっ!!と、歯切れの良いテバナ(汗)子供がオシッコと言うと、広場の適当な場所でシャーっとさせる。だから子供には最初から、前とお尻に穴の開いたズボンを履かせている。合理的だ(笑)

食べ物のカスはもちろん、種好きが高じ、ヒマワリ、スイカ、ナンキンマメ、ありとあらゆる種の殻を膨大に排出し、ぺっぺと周辺にまき散らすので大量のゴミの山が、あちこちに積み上がる。ゴミ箱に捨てるという考えは全くない。あるいは、ゴミ箱が無いから持ち帰るということもない。人から排出されるモノは、すべてゴミじゃないという考えだ。そう断言する!人が息を吸って、吐く=モノを食べて、出す。というように、現地の人々にとっては生理現象の延長上にあり、しかしそれは社会一般で言うところのゴミなんだぜと、諭してやりたい(汗)

地面はもちろん、ありとあらゆる平面が、ゴミ箱と化す。いや斜面も。いったん手に取るか、何かにくるんで捨てるならまだしも、老若男女、皆せっせ、ペッペッと吐き捨てる。それはそれは、驚くべき国民性と言おうか、社会性と言おうか、、、

深夜2時頃、ようやく人々の往来はおさまり、辺りは静けさに包まれ、、、
たかと思いきや、バスも走ってないと思う3時頃、どこからともなく、ど~っ!と人が押し寄せてきた。わぉ!団体で押し寄せる勢い。こ、コワイ、恐怖すら感じさせる光景。

朝の4時。まだ薄暗い中、天秤棒のバケツから、もうもうと湯気を放ちながら、何かを売り歩くおばちゃん。バケツの中を見るとお粥。「アツアツの粥、アツアツの粥、いらんかぇ~」みたいな感じで、待合の人々に売り歩いているのだ。「どや、これウマイで、買わへん?」と、声を掛けてくるが、ほとんど寝ておらず、朦朧とした気分では食欲も湧いてこない。

結局、ベンチに座ったまま、朝を迎えたのだった。(当時の日記を加筆)

中で寝ることはあきらめ、少し駅周辺をブラブラしてみる。基本的に真っ暗という印象で、露店の灯りでようやく足元が確認できる感じ。宿の呼び込みらしき婆さんが声を掛けてくる。その婆さんに応じ、我是日本人…日本人だけど泊まれるか?と聞いてみるが、婆さん、は?という顔でキョトンとしている。傍にいたおっちゃんが見かねてか「この人日本人だってさ」と喋ってくれた。察するに、日本人という発音が婆さんには聞き取れなかったのだろう(汗)、、、すると途端に、いままで穏やかだった婆さん、別人になったかのような態度で、不、不!!(ダメ、ダメ、あきまへんがな!)って。当時、日本人観光客は珍しい部類に入り、ましてや反日感情という概念すら浮き彫りにされていなかった時代だったと思うが、基本的に外国人が泊まれる宿は限られていた。小さな宿(旅社、招待所)は、人民しか泊まれないという制限があった。
つづく

上にスクロール