東京の設計事務所に務めていた頃、確か1990年だったか、年末年始の休みを利用して海外に行って見たいとフト思い立った。限られた期間で手っ取り早く、安く海外に行けそうなところは…中国?と勝手に想像し、事務所で慕っていた先輩に「海外に行って見たいんですが、どこが良さ気でしょう?」と相談したところ、香港なんか良いんじゃない?というようなことを言われた。

それで、香港経由でまずは中国の広州に入ろうと思考を巡らす。
その先輩に、香港の事情や渡航について色々と教えてもらいながら、旅の行程を練る。その中で、香港に行くなら九龍城砦には絶対に行っておくべきだ!と、熱弁される。九龍半島のある一角に、邪悪で異世界が広がる建物があるから、そこは絶対行って損はない…と。「ヤバイ」とか「危険」とか「無茶苦茶」とか、そんな言葉しか出てこない(汗)
そんな危険な場所を熱弁する先輩…
その熱弁の意味が、現地に行って見てよく理解できた。
カルチャーショックという言葉では語り尽くせない、ドロドロした異空間がそこには広がっていた。建築を目指す人間なら、いや建築を目指さなくとも、その後の人生観に強引にグイと割り込んでくる強烈な圧力(インパクトの塊)を感じる。この時代、ここに立てば、誰しも少なからず影響を受けるはず。
デタラメに建物からニョキニョキ飛び出た「○○○牙科」の看板に埋め尽くされた外観。これぞ、看板仕上げ建築や〜!(笑)と言わんばかりの強烈な佇まい。無計画に増築された歪な形状の建物。頭上には、すれすれに航空機が飛び交う。一歩中に入れば、そこは真っ暗闇。本当に一歩!で、闇の世界。あまりにも強烈すぎて、「麻薬」「殺人」「犯罪」の巣窟という言葉が頭を過ぎり、最初の一歩で、本能的に身の危険を感じ、すぐに外に飛び出してしまう。治安安泰の日本で普通に生活してきた我々にとっては、かなり勇気がいる行為。この気持ちを、言葉で表すなら…
「意味が分からない」という表現がピッタリ。
視覚、聴覚、嗅覚に訴える様々な状況が一気に襲ってくるので、すぐには情報を処理しきれない。何度か、入ったり出たり…
「入るんか?」「出るんか?」「入るんか?」
出るんか〜ぃ!みたいな、ひとり吉本新喜劇(笑)
幾度かの出入りの過程で、中の状況を多少なりに把握できたところで勇気を出し、なるべく安全そうな方へ入る(小市民)。配線、配管が縦横無尽に頭上を埋め尽くし這いめぐる(こりゃ、メンテが大変だと職業病)上からポタリと配管から漏れた汚水が滴り落ちる。真っ暗闇の通路先に、ぼんやり明かりが見える。ジトジトした空間、異臭、大量のゴミ、デタラメに貼り尽くされた壁のビラ。衝撃的な体験だった。
その九龍城砦も1993年に取り壊され、いまは公園になっているそうで。この当時、この時期に香港に行ってつくづく良かったと61歳になったいまそう思う。いまの時代では、中々できない貴重な体験だった。自身の思考形成の過程で、非常に重要な意味を成したと思うできごと。25歳当時の自分にはまだその意味は皆無だったが。