世界一周の旅(武漢~重慶3)

29mar1992(sun)くもり

朝、体温を計ったら37.8℃あったので、布団にくるまっていたが、いつものことだけど、早朝からヤケに騒がしくて寝付けない。斜め向かいのおじさんに、風邪薬をもらう。ありがとう。明日は重慶。(当時の日記から引用)

この日は、三峡の景観が一番素晴らしい場所を航行するというのに、風邪で元気が出ず、甲板にすら出る気が起きない。三峡ダム建設が着工されたのは、翌年の1993年。実にタイミングの良い状況下ではあったが、熱で頭がボぅ~としていて、自分自身の中では、かなり歴史的な出来事になるに違いないというのに、、、うわの空。

同室のヤンチャ系と、ひと目で想像がつく中国人2人組とはちょいちょい、他愛ない世間話しや、食事のこと等々、ツッコんだり、ツッコまれたりしていて、かなり仲良くしてくれていた。

ある日の、食堂での出来事。
そのヤンチャなチンピラ風青年に「これクエ!」と差し出されたのが、
ニワトリアシ~!!
わぉ!この足、どこ食うね~ん!ちゅうツッコミ入れたのはもとより、不気味な鋭い爪をこちらに向けて、グ~パ~、グ~パ~させながら、ニタニタしている。なんともヤンチャ系ならではのツッコミに、苦笑いするしかない。

当時、そういうのを食材にするという概念が日本人のボクにはまったく無かった。足を食う中国人って、バケモノか?!と思ったくらい、プチショッキングな出来事だった。
中国人の食事について、良く比喩されるのが、空を飛ぶものは飛行機以外、四つ足のものは机以外、、、なんでも食す!と。

そのチンピラ風青年に「おい!起きて外に出るアルょ!!」と促され、ベッドを出て甲板に向かう。曇りがちな天候も手伝い、まさに水墨画のような景観が目の前に広がる。ここを航行できるのも今年いっぱい。三峡ダムの工事が始まれば、それこそ、上海から長江をずっと船で遡ることなんてできない。(三峡ダムには、上流と下流の落差を行き来できる5段もの閘門があり、これを介し航行できるらしいwikipediaより)航行記念日的な、今日この日、この瞬間!ということで、ヤンチャ系チンピラ風青年二人組と記念撮影。パシャ!

世界一周の旅(武漢~重慶2)

27mar1992(fri)くもりのち雨
上海から長江を船で移動。

当時の中国は、まだまだ発展途上にあり、日本の感覚でいうと、20年くらいのズレはあったんだろうと思う。無茶苦茶ダッサイ服装に加え(中にはまだ人民服の人もいるくらいだった)現代における社会通念としての根本的常識がまるで日本とは違っていた。生きるということに貪欲であり、それゆえか、なりふり構わない振る舞いには腹立たしささえ感じる。その一方で、もしかすると自身が忘れていた、あるがままの人間らしさというものを呼び起こしてくれるような気もする。そういう気分にさせられる不思議な感覚を、少なからずいまでも中国に感じる。高度成長と共に北京オリンピック以降、街は洗練され、人々の感覚は徐々に希薄となり、現代的になってきているのは事実だが…

中国(上海、北京)には2008年にも行っており(目的は、客家円楼<福建土楼>を見るため)ギトギトした人間の生き様が如実に現れたりする裏路地(胡同)をあえて徘徊する。道端で練炭を起こし、もうもうと湯気をたぎらせ、夕餉の準備をする人たち。その風景をカメラに収めようとすると「ちょっとアンタたち、なにカメラ向けてんのよ!しっしっ!!」と、露骨に大声で追い払われたり。街灯もまばらな、暗く細い路地の怪しげな雰囲気にドキドキ興奮したり。そういう風景がたまらなく好きだったりする。かつての幼いころの日本の風景を彷彿とさせてくれているような。

そんなある意味、素朴(ピュア)であろう同室の中国人たちと仲良くなったまでは良かったが、筆談攻めには参った。そろそろ就寝時間だろ!っていうのに、寝かせてくれない。大体が喋り出したら、止まらない猪突猛進人種。
当時の日記をみると…

28mar1992(sat)晴時々くもり
夕方頃から寒気がする。どうやら風邪をひいたらしい。鼻も詰まる。熱いシャワーを浴び、晩メシ食って早々に寝ようとしたが、またしても筆談の渦中に…結局、寝たのは23:00を過ぎていたと思う。

世界一周の旅(武漢~重慶)

26mar1992
昼前に宿を出て、フェリー乗り場の窓口へ行き、3等を4等に替えて欲しいと交渉するが、全然ダメ。没有!不、不~!!

夕方まで時間があるので、武漢市内を散策。黄鶴楼にて、スケッチ。

当時のスケッチ。武漢随一の名勝地とされ、中国の『江南三大名楼』のひとつ(Wikipediaより)。屋根の反りが半端ないのは、中国すべての楼閣、歴史的建造物に共通する特徴のひとつ。世界遺産登録建築物。

船内での食料、パンや即席麺等を買い乗船。出航ギリギリだったため、ベッドは上段しか残っておらず、服務員に「中国人より数倍高い料金払ってんねん、下段ベッド提供せなシバくど~」と訴えてみる。下段の人と交代交渉してくれた。が、何を思ったか服務員のおばちゃん、「おっさん、どけ!コノヤロー」的な感じですごい剣幕でまくし立て、下段を占有してたおっちゃんを蹴散らす(汗)

いや、何もそこまでせんでも…と、めちゃ恐縮しつつも上下入れ替えてもらう。が、強制交代させられたおっちゃん、当然のごとく不機嫌。周りの中国人に「なんやねんコイツ後から来たクセに!」的に訴えてる感じで、周囲の中国人もおっちゃんに同情の、イヤ~な空気が狭い室内を漂う。

うわぁ~
ちょっと、2日間も同じ10人ほどの小さな部屋で過ごさなければならないというのに、このままじゃさすがにマズイと感じ、謝ろうと思い「ごめんなさい」を、中国日常用語集で調べ、紙に「対不起」と書いて、おっちゃんに見せた…

とたんに!機嫌が良くなり「構わん、構わん、お前下段で問題ない」みたいな、まったく別人格に変身。いままでのあの不穏な空気は何やってん!という感じで、室内全員の中国人と仲良くなった。あの当時は、まだ純粋な国柄だったんだろうね。そして、仲良くなった途端に、筆談攻め!

お前日本人アルか?
名前、なんて書くアルょ?
日本の首都はどこアルね?
タバコ吸うアルね!
と差し出され…

休ませてくれない(汗)
とにかく、一難去ってまた一難。

世界一周の旅(武漢その2)

25mar1992
いま世界を揺るがす、コロナウイルス発生地とされる武漢。

長江をそのまま武漢から遡るため、明日出航予定の重慶までのフェリーチケット確保のために、武漢に1泊することに。「地球の歩き方」に載ってる宿を探すが見つからず、適当に目に入った旅社へ飛び込む。1泊シングル8元(約200円)に決めた。ここの支配人のおっちゃん、めちゃくちゃ親切で、フェリーのチケット売り場に案内してくれた上に、ついでに市内の色んなところを案内してくれた。

明日、夕方出航の3等フェリーチケット(2段ベッド )が買えた。料金は235元。日本円で5,800円ほど。外国人のため、かなりボラれたが仕方ない(当時は、外人料金設定があったため)

晩御飯は街中の飲食店でと思ったが、オレが作るメシの方がずっとウマイぜ。みたいな感じで、宿の支配人に強引に押し切られ、断り切れず宿で晩飯をとるハメに。

安宿のためか、夜中に南京虫に数か所身体を食われ、シャレにならないくらいこの後ずっと、旅の終わりまで跡が残ったことをいまだに覚えている。

世界一周の旅(上海~武漢その1)

上海から揚子江(長江)を船で遡れるだけ遡ってみようということで、フェリーのチケットが買えたのは武漢まで。そこから先へは、武漢でチケットを買い足すことになる。

おおよその計画としては、揚子江をそのまま遡って成都へ行き、そこから陸路で西安に入って烏魯木斉を目指そうと。がしかし、そこまで行った先からどう隣国へ入るか?という問題があって、考えがまとまらず、とりあえず揚子江を行けるところまで行ってみようということにした。

建築をめざして(はじまり)

独立して建築設計事務所を構えるにあたり、建築のこと、街のこと、人々の暮らしのこと、世界の様々な環境のこと、それらを机上の学習ではなく、実際に自分の目で追い、街を歩き、感じたままに独自の視点で学びたいと思い立ち、世界旅行へと旅立った。写真はなるべく撮らずに、スケッチしながらの旅と決め込んだ。それがボクの、20代の出来事だった。

かれこれ30年くらい前の話しになるが、その時の思いを50代になったいま、改めて感じてみようと、この記事を立ち上げてみる。幾度かそんな思いを持ちながら、いざ書き始めてみると中々どうして進まない。あまり深く考えすぎていたのかも知れない。もっと気軽に投稿していこうと思う。

当時の日記を元に、それを改めて書き起こしてみる。

大阪港から上海港へ

大阪から上海へフェリーで渡航する。
この手段が当時としては、格安で海外へ出る際のベストチョイスだった。今のような格安航空券が無い時代の話し(汗)

当時の日記
いまだとPCやスマホで記録した方が便利で荷物も少なくなるけど、当時はそのような文明の利器は当然なかった時代

ひとまず上海へ渡り、その後陸路で各方面へとバックパッカーは散っていく。当時の上海は外国人紙幣と人民紙幣(レンミンピー)とに分かれていて、レートの差が10倍くらいあったような記憶がある。食事ひとり分で10元あれば腹いっぱい食べられる上、宿代もドミトリーにすれば15元から20元あれば泊まれた。当時のレート(中国1元が日本円で25円)で、日本円に換算すると1日1,000円から2,000円の間で、交通費も入れて中国内の旅ができた。※これでも、かなり贅沢な予算。もっと切り詰めればいくらでも切り詰められた。

上海から揚子江(長江)を更に船で遡る計画を立て、フェリーのチケットを買いに市内を彷徨う。とにかく文字が読めないし、片言の英語も通じない、身振り手振りの筆談だけが頼り。チケット売り場を探すだけで、丸2日を要した。

交通機関、観光地の入場料等々、すべて外国人料金と人民料金とに分かれていて、外国人はかなり高額設定の上、外人紙幣で払え!と必ず怒られる。中国の人、いつも怒ってる上、整列して待つという概念が全くない。我先にと押し合いへし合いし、窓口はいつもどこへ行っても、ぐちゃぐちゃの人の塊で見えない。日本のように行儀よく待っていたら、チケットは絶対手に入らないし日が暮れる一方。そこで培った戦法としては、おしくらまんじゅうで、わーっ!と人を押しのけ、メモに行き先を書き、それを無言で窓口に差し出すというように。こうすることで、人民料金(格安)でチケットが買えるので、一石二鳥!

人は旅することで、逞しくなっていくのである!格言

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